總社宮のご案内 御由緒

(当社発行、由緒書より)

 創建年代不詳なれども、平安時代の末ごろには、普く全国の国府の地に鎮座せられたことは明らかである。

 宮地直一博士の「総社に関する考察」という論文の一節に「語の性質はどこまでも普通名辞に属し、数々の神を一つ所に勧請して綜合奉斎する意味を之が限定的内容とする寺院に次て起って最も世間的に流布し且つ史上に大切なる関係を繋いだのが一国の総社である。それに就いて確呼たる証左を欠くとはいえ王代の末頃には普く諸国に行亘り常陸一宮鹿島神宮と相並び地方の神社行政上の中心的位置にあったものと思われる。

 当社の社伝によれば聖武天皇の天平年間勅命によって天神地祇の中、霊験の御神六柱を国内六府の地に勧請合祀し以て国家の鎮護皇室の御守護民衆の幸福を祈願せられしと云う。

 古事類苑多武峯略記に引ける要記に延長四年総社を造ると見え是れ文献に遺る最も古いものであると云われている。 
府中古事記には総社明神は国内の明神大社七社の神鹿島大神、静神社、吉田神社、大洗磯前社、酒列磯前社、稲田神社、筑波社の神々を合祀するとあれども、当社合祀の御祭神に符合しない。

 総社の沿革については古来種々の説あれども国府の地に国分寺と相対して鎮座尊崇を受けし事は事実にして其の合祀祭神は六所明神を合祀せる当社の場合を除き外に一国の明神大社を合祭せるものと寺院守護神としての総社と三様ありし様思わる。

 当社は六所明神を御祭神とせる最も古き総社にして往昔常陸國総社と称ひ奉りて世々の国司祭政一致の大義に基づいて奉齋の誠を捧げ、外一宮鹿島神宮と並んで国に事ある毎に朝廷鎌倉将軍家より奉幣ありし事は所蔵の文書により明らかである。

 戦国兵乱の世となりては大椽氏の崇敬篤く江戸時代には松平家代々の尊崇深く其の後郷閣の産土神として朝野の信仰を受けた。

 明治四年郷社に列し同三十一年県社に昇格した。

 古来武将の崇敬篤く弘安の役における敵国降伏の祈願を始め永亨年間には太田道潅奥州下向の途次当社に参籠祈願をこめられ和歌一首を遺された。

總社宮参拝詩